明治42年(1909)に31歳で助教授になりヨーロッパに留学した後、大正時代は寅彦にとって激動の時代でした。
大正2年(1913)には父の利正が亡くなった悲しみが、続く大正3年には幼いときから親しんだ甥の別役励夫が亡くなった悲しみが重なりました。
大正5年には寅彦が38歳で東京帝国大学助教授から教授になった喜びと、その同じ年に文学面の師と仰ぐ夏目漱石が亡くなった悲しみが寅彦を襲いました。
さらに大正6年(1917)にはラウエ放射線に関する論文を発表し国内では恩賜賞を受けましたが、惜しくもノーベル賞を逃し、10月には妻寛子に先立たれました。
大正8年には寅彦は胃潰瘍を患い吐血し、大正11年まで大学を休みました。その間の、大正10年には年の近い友人ともいえる甥の別役亮も亡くなってしまいました。
このように人生の荒波を乗り越えながら科学者の仕事を続け、一方でさまざまな随筆を書き上げていたのです。
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○「科学者と芸術家」 大正5年(1916)「科学と文芸」(38歳)
○「物理学と感覚」 大正6年(1917)「東洋学芸雑誌」(39歳)
○「時の観念とエントロピーならびにプロパビリティ」 大正6年(1917)「理学会」(39歳)
○「茶碗の湯」 大正11年(1922)「赤い鳥」(ペンネーム八条年也)(44歳)
○「数学と語学」 昭和4年(1929)「東京帝国大学新聞」(51歳)
○「ルクレチウスと科学」 昭和4年(1929)「世界思潮」(51歳)
○「日常身辺の物理的現象」 昭和6年(1931)「科学」(53歳)
○「物理学圏外の物理的現象」 昭和7年(1932)「理学会」(54歳)
○「自然界の縞模様」 昭和8年(1933)「科学」(55歳)
○「科学と文学」 昭和8年(1933)「世界文学講座」(55歳)
○「科学者とあたま」 昭和8年(1933)「鉄塔」(55歳)
○「疑問と空想」 昭和9年(1934)「科学知識」(56歳)