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「初旅」

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 「幼い時に両親に連れられてした長短色々の旅は別として、自分で本当の意味での初旅をしたのは中学時代の後半、しかも日清戦争前であったと思うから、たぶん明治二十六年の冬の休暇で、それも押詰まった年の暮であったと思う。自分よりは一つ年上の甥のRと二人で高知から室戸岬《むろとざき》まで往復四、五日の遠足をした。その頃はもちろん自動車はおろか乗合馬車もなく、また沿岸汽船の交通もなかった。旅行の目的は、もしも運がよかったら鯨を捕る光景が見られるというのと、もう一つは、自分の先祖のうちに一人室戸岬の東寺《ひがしでら》の住職になった人があるのでその墓参りをして来るようにという父からの命をうけていたことである。」
(東寺=最御崎寺にある一海和尚の墓)

(鯨館にある絵馬)
 「第一日は物部川《ものべがわ》を渡って野市《のいち》村の従姉の家で泊まって、次の晩は加領郷《かりょうご》泊り、そうして三晩目に室津《むろつ》の町に辿《たど》り付いたように思う。翌日は東寺に先祖の一海和尚の墓に参って、室戸岬の荒涼で雄大な風景を眺めたり、昔この港の人柱になって切腹した義人の碑を読んだりしたが、残念ながら鯨は滞在中遂に一匹もとれなくて、ただ珍しい恰好をして五色に彩色された鯨漁船を手帳にスケッチしたりしただけであった。」


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