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「藤棚の陰から」

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 「若葉のかおるある日の午後、子供らと明治神宮外苑をドライヴしていた。ナンジャモンジャの木はどこだろうという話が出た。昔の練兵場時代、鳥人スミスが宙返り飛行をやって見せたころにはきわめて顕著な孤立した存在であったこの木が、今ではちょっとどこにあるか見当がつかなくなっている。こんな話をしながら徐行していると、車窓の外を通りかかった二三人の学生が大きな声で話をしている。その話し声の中に突然「ナンジャモンジャ」という一語だけがハッキリ聞きとれた。同じ環境の中では人間はやはり同じことを考えるものと見える。
 アラン・ポーの短編の中に、いっしょに歩いている人の思っていることをあてる男の話があるが、あれはいかにももっともらしい作り事である。しかしまんざらのうそでもないのである。」


(牧野植物園にはナンジャモンジャ=ヒトツバタゴの
大木があり、開花すると見事である。)



(高知城二の丸の睡蓮)


 「睡蓮を作っている友人の話である。この花の茎は始めにはまっすぐに上向きに延びる。そうしてつぼみの頭が水面まで達すると茎が傾いてつぼみは再び水中に没する。そうして充分延び切ってから再び頭をもたげて水面に現われ、そうして成熟し切った花冠を開くということである。つまり、最初にまず水面の所在を測定し確かめておいてから開花の準備にとりかかるというのである。
 なるほど、睡蓮には目もなければ手もないから、水面が五寸上にあるか三尺上にあるかわからない。もしか六尺も上にあったら、せっかく花の用意をしてもなんの役にも立たないであろう。自然界を支配する経済の原理がここにも現われているのであろう。
 このつぼみが最初に水面をさぐりあてて安心してもぐり込んだ後に、こっそり鉢をもっと深く沈めておいたら、どういうことになるか。
 これは一度試験してみる価値がありそうである。花には少し気の毒なような気はするが。」

 


 「虞美人草のつぼみははじめうつ向いている。いよいよ咲く前になって頭をもたげてまっすぐに起き直ってから開き始める。ある夏中庭の花壇にこの花を作ったとき、一日試みに二つのうつ向いたつぼみの上方にヘアピン形に折れ曲がった茎を紙撚(こより)りのひもでそっと縛っておいた。それから二三日たって気がついて見ると、一つは紙ひもがほどけかかってつぼみの軸は下方の鉛直な茎に対して四五十度ぐらいの角度に開いて斜めに下向いたままで咲いていた。もう一つのは茎の先端がずっと延びてもう一ぺん上向きに生長し、そうしてちゃんと天頂を向いた花を咲かせていた。つまり茎の上端が「り」の字形になったわけである。
 もっと詳しくいろいろ実験したいと思っているうちに花期が過ぎ去った。そうしてその年以来他の草花は作るが虞美人草はそれきり作らないので、この無慈悲な花いじめを繰り返す機会に再会することができない。」

 


(虞美人草=ヒナゲシ。北川村モネの庭にて)


(横須賀の東郷平八郎像)
 


 「東郷大将の若い時の写真を見ると、実に立派でしかも明るく朗らかな表情をしたのがある。ジョン・バリモアーなどにもちょっと似ているのがある。しかし晩年のいわゆる「東郷さん」になってからの写真にはどれにもこれにもみんなどこか迷惑そうな窮屈そうな表情がただよっているような気がする。
 世人は自分勝手に自分らの東郷さんの鋳型をこしらえて、そうして理が非でもその型にはまることを要求した。寛容な東郷大将はそうした大衆の期待を裏切って失望させては気の毒だと思って、かなりそのために気をつかっておられたのではないかという気もする。これは豚の心で象の心持ちを推し量るようなものかもしれないが、もしこの推量が当たっていると仮定したら、大衆は自分たちのわがままで東郷さんのほんとうのえらさを封じ込めてしまったということになるかもしれない。」
十六

 「野中兼山《のなかけんざん》が「椋鳥には千羽に一羽の毒がある」と教えたことを数年前にかいた随筆中に引用しておいたら、近ごろその出典について日本橋区のある女学校の先生から問い合わせの手紙が来た。しかしこの話は子供のころから父にたびたび聞かされただけで典拠については何も知らない。ただこういう話が土佐の民間に伝わっていたことだけはたしかである。
 野中兼山は椋鳥が害虫駆除に有効な益鳥であることを知っていて、これを保護しようと思ったが、そういう消極的な理由では民衆に対するきき目が薄いということもよく知っていた。それでこういう方便のうそをついたものであろう。
「椋鳥は毒だ」と言っても人は承知しない。なぜと言えば、今までに椋鳥を食っても平気だったという証人がそこらにいくらもいるからである。しかし千羽に一羽、すなわち〇・一プロセントだけ中毒の蓋然率があると言えば、食って平気だったという証人が何人あっても、正確な統計をとらない限り反証はできない。」


(高知市春野町にある野中兼山像)
 


(本山町帰全山公園にある野中兼山像)
十七

 「野中兼山の土木工学者としての逸話を二つだけ記憶している。その一つは、わずかな高低|凹凸《おうとつ》の複雑に分布した地面の水準測量をするのに、わざと夜間を選び、助手に点火した線香を持って所定の方向に歩かせ、その火光をねらって高低を定めたと言い伝えられていることである。しかしねらうのには水準器のついた望遠鏡か、これに相当する器械が必要であろうがそれについては聞いたことがない。
 もう一つは浦戸港の入り口に近いある岩礁を決して破壊してはいけない、これを取ると港口が埋没すると教えたことである。しかるに明治年間ある知事の時代に、たぶん机の上の学問しか知らないいわゆる技師の建言によってであろう、この礁が汽船の出入りの邪魔になると言ってダイナマイトで破砕されてしまった。するとたちまちどこからとなく砂が港口に押し寄せて来て始末がつかなくなった。」


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