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「海水浴」

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 「明治二十六、七年頃自分の中学時代にはそろそろ「海水浴」というものが郷里の田舎でも流行《はや》り出していたように思われる。いちばん最初のいわゆる「海水浴」にはやはり父に連れられて高知|浦戸湾《うらどわん》の入口に臨む種崎《たねざき》の浜に間借りをして出かけた。以前に宅《うち》に奉公していた女中の家だったか、あるいはその親類の家だったような気がする。夕方この地方には名物の夕凪《ゆうなぎ》の時刻に門内の広い空地の真中へ縁台のようなものを据えてそこで夕飯を食った。その時宅から持って行った葡萄酒やベルモットを試みに女中の親父に飲ませたら、こんな珍しい酒は生れて始めてだと云ってたいそう喜んだが、しかしよほど変な味がするらしく小首を傾けながら怪訝《けげん》な顔をして飲んでいた。そうして、そのあとでやっぱり日本酒の方がいいと云って本音《ほんね》をはいたので大笑いになったことを覚えている。」
(対岸の戎神社から種崎の浜を望む)

(ラムネと開栓具)
 「自分もその海水浴のときに「玉ラムネ」という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕《みずがめ》に冷やしてあるラムネを取りに行って宵闇の板流しに足をすべらし泥溝《どぶ》に片脚を踏込んだという恥曝《はじさら》しの記憶がある。」
 「その頃にもよく浜で溺死者があった。当時の政客で○○○議長もしたことのあるK氏の夫人とその同伴者が波打際に坐り込んで砂浜を這上《はいあ》がる波頭に浴しているうちに大きな浪が来て、その引返す強い流れに引きずり落され急斜面の深みに陥って溺死した。名士の家族であっただけにそのニュースは郷里の狭い世界の耳目《じもく》を聳動《しょうどう》した。現代の海水浴場のように浜辺の人目が多かったら、こんな間違いはめったに起らなかったであろうと思われる。」
(種崎の浜にて)

(種崎の浜の陸側にある松の防風林)
 「海水着などというものはもちろんなかった。男子はアダム以前の丸裸、婦人は浴衣《ゆかた》の紐帯《ひもおび》であったと思う。海岸に売店一つなく、太平洋の真中から吹いて来る無垢《むく》の潮風がいきなり松林に吹き込んでこぼれ落ちる針葉の雨に山蟻《やまあり》を驚かせていた。」


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