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「追憶の医師達」

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(高知公園にある岡村景楼先生の頌徳碑)
 「子供の時分に世話になった医師が幾人かあった。それがもうみんなとうの昔に故人になったしまって、それらの記念すべき諸|国手《こくしゅ》の面影も今ではもう朧気な追憶の霧の中に消えかかっている。
 小学時代にかかりつけの家庭医は岡村先生という当時でももう相当な老人であった。頭髪は昔の徳川時代の医者のような総髪を、絵にある由井正雪のようにオールバックに後方へなで下ろしていた。いつも黒紋付に、歩くときゅうきゅう音のする仙台平(せんだいひら)の袴姿であったが、この人は人の家の玄関を案内を乞わずに黙っていきなりつかつか這入って来るというちょっと変った習慣の持主であった。
 いつか熱が出て床に就いて、誰も居ない部屋にただ一人で寝ていたとき、何かしら独り言を云っていた。ふと気が付いて見るといつの間に這入って来たか枕元に端然とこの岡村先生が坐っていたので、吃驚してしまって、そうして今の独語を聞かれたのではないかと思って、ひどく恥ずかしい思いをした。しかし何を言っていたかは今少しも覚えていない。ただ恥ずかしかった事だけはっきり想い出すのである。もちろん云っていた事柄が恥ずかしかった訳ではなくて独語を云っていた事が恥ずかしかったのである。」

 
 「十二、三歳の頃ひどくからだが弱くて両親に心配をかけた。そのためにその頃郷里でただ一人の東京帝国大学卒業医学士であったところの楠先生の御厄介になることになった。この先生はたいていいつも少し茶色がかった背広の洋服に金縁眼鏡で、そうしてまだ若いのに森|有礼かリンカーンのような髯を生やしていたような気がする。とにかくそれまでにかかった他の御医者様の概念とはよほどちがった近代的な西洋人風な感じのする国手であった。
 父が話し好きであったからたいていの医師は来るとゆっくり腰を据えて話し込んでしまうのであったが、この楠先生もよくお愛想に出した葡萄酒の杯を銜《ふく》んだりして、耳新しい医学上の新学説などを聞かせてくれたような記憶がある。この人の話した色々の話の中で今でも覚えているのは、外科手術に対して臆病な人や剛胆な人の実例の話である。」


(高知公園にある楠正興先生の頌徳碑)


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