寺田寅彦記念館

名 称 : 寺 田 寅 彦 記 念 館
所 在 地: 〒780-0915 高知県高知市小津町4−5
電話番号: 088ー873ー0564
開館時間: 午前9時〜午後5時
休館日 : 毎水曜日 年末年始(12/27〜1/3)



・系図参照
・年表参照
・タイトル写真集
・庭の草花や樹木
・寺田寅彦記念館作成資料




 寺田寅彦は「天災は忘れた頃にやってくる」ということばで有名ですね。このとおりの言葉はなかったそうですが、昭和9年(1934)に彼の書いた「天災と国防」の中にそういう意味のことが書かれています。また、昭和8年に書かれた「津浪と人間」では、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要があることを説いています。

 寺田寅彦旧邸=記念館は高知市の城西公園の北側で、江ノ口川に面しています。
 江ノ口川は、昭和46年(1971)から20年間、悪臭漂う汚い川の代表挌で、今でも少しその名残が感じられます。それ以前はもう少し清らかな川だったのだろうと思います(「花物語」に寅彦は「宅の前を流れている濁った堀川」と記述していますが)。
 少年寅彦は城山の緑と合わせて、よい環境で自然に親しみながら育ったようですね。

 寅彦の父は土佐藩の下級武士でしたが、明治になって陸軍軍人になっています。会計監督という軍の仕事の関係で東京から名古屋や九州などに転勤がありました。
 そんな中で寅彦は明治11年寅年(1878)、東京で生まれました。その後、明治14年に父は高知のこの場所に家を買い家族と共に高知に帰りました。途中1年ほど再び東京に行きますが、4歳から19歳まで寅彦はここで暮らしました。立派な母屋や茶室、それに寅彦の勉強部屋としての離れなどが配されていました。
 この家の庭には複数の石灯籠を配し、(かしわ)の木や銀杏、椿などが植えられ、季節の草花が美しく咲き、そのようすは寅彦の心にいつまでも残っていました。
 今ではこの座敷や茶室で句会や一弦琴の会などが行われています。
 寅彦は高知に関する随筆もたくさん書いていて、晩年まで高知を故郷として懐かく思っていたことがよくわかります。

 寅彦は高知市立江ノ口小学校、旧制第一中学校(現高知追手前高等学校)を卒業し、旧制熊本第五高等学校(現熊本大学)で田丸卓郎に薫陶を受け東京帝国大学理科大学物理学科(現東京大学)に進みました。物理論文を300本も発表するなど物理学者として有名です。特にラウエ映画の実験方法及其説明に関する研究ではもう少しのところでノーベル賞を逃しましたが、学士院恩賜賞を受賞しました。寅彦が晩年になって、科学に対する心得を若い人に向け書いた「科学に志す人へ」という随筆があります。

 その一方、寅彦は熊本五高の英語の教師であった夏目漱石に師事し、多くの随筆などを書き文学面にも才能を発揮しています。漱石の書いた小説「我が輩は猫である」に登場する、科学者であり文学者でもある水島寒月先生は寅彦がモデルであるといわれています。
 また、寅彦は科学、文学だけでなく、植物に親しみ、音楽や絵画、映画にも興味を持っていました。

 昭和10年(1935)、転移性骨腫瘍により57歳で東京で亡くなりましたが、高知市街北部の墓所で父母や妻たちとともに眠っています。

 異色の人材である寅彦について、もっと知りたいと思いませんか?    −>    寺田寅彦記念館友の会へどうぞご入会ください。


○復元された居室など


戦災で大部分が焼失しましたが、復元されています。
敷地はもっと左手及び奥に広がっていたのですが、道路や法務局の建築により狭くなっています。
隣接していた国の法務局が移転する時、私たちはこの土地を返してもらいたいと願っていましたが、
国はマンション業者に売り渡しました。
随筆にある「重兵衛さんの一家」が住んでいた長屋はこの写真より左の法務局跡地(2014年現在
は民間のマンション)にありました。


戦災で焼け残った寅彦の勉強部屋です。
敷地が狭められた時に少し東に移動しているようです。
平成元年に、老朽化した一部の材を新しくし改築されました。
昭和42年邸跡とともに高知市史跡に指定されました。


勉強部屋の内部です。
この座り机で苦手な算数の問題を解いていたのでしょうか。


寺田家に残されていた設計図により昭和58年に「寺田寅彦記念館」として復元された主屋は、
どっしりした大きい屋根が特徴です。


奥の内玄関と隣り合わせの表玄関です。


座敷には立派な書の掛け軸がかかり、管理人の手により生花も添えられています。
友の会の総会や研修会などもここで行われます。


西の間には寅彦の遺品や家族写真などがいくつか展示されています。
これは父、利正に買ってもらった蒸気機関の模型です。
また印刷・発行された全集なども置いてありますので、ご覧ください。

ただ、ここは木造の建物なので火災で焼失する恐れがあり、多くの遺品は
近くにある県立文学館の寺田寅彦記念室に納められています。


主屋に先だって昭和51年(1976)に復元された茶室です。
お茶の会や俳句の会などで利用されています。

○記念館の近隣


旧邸前には高知城の堀川でもある江ノ口川を数十m遡ると直角に左に曲がります。
左側は高知城の敷地西部にある城西公園です。


この城西公園は、今も正門跡が残る、幕末に吉田東洋が作った藩校致道館(陶冶学校)でした。
明治維新後は一時県庁として使われ、その後寅彦の時代には高い塀に囲まれた高知刑務所でした。
現在はこの門は城西公園の南東部、高知城に近い部分に、武道館の出入口として建っています。


曲がった川の外側(西側)部分に小さな碑が建っています。寺田寅彦の文学碑です。


「花物語」の書き出し部分が碑に彫られています。
このあたりの草むらが寅彦5歳の頃の遊び場だったようです。


寺田寅彦記念館は城西公園の北側です。
駐車場はとても狭いですが、注意して記念館北側の通りからお入りください。
記念室のある県立文学館からは、歩いて5〜7分程度です。

記念館の座敷及び茶室を茶会や句会などにお貸ししています。高知市文化施設一覧へのリンク

寺田寅彦記念館友の会Top